その映画を観ないという選択肢もあったのですよ

映画『銀魂2 掟は破るためにある』

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 何故この映画を見るのかという問いは、この映画を見ること以上に私にとっては重要かもしれない。というのも、私はこの映画の本来的な客ではないからだ。原作ファンというわけでもないし、監督の福田雄一のファンというわけでもない。前作といくつかの諸作を見るに、福田監督の笑いは、なんというか非常に大仰かつベタなもので、どっちかというとテレビのバラエティ番組に近いノリの笑いである(監督の出自を考えればさもありなん)。『銀魂』ではさらに原作やアニメ由来なのか色々なパロディネタが加わるのだが、これが私には地獄のように気恥ずかしく思えてついスクリーンから顔を背けてしまいたい衝動に駆られてしまう。このパロネタの数々、「攻めた」ネタとして巷間では言われているけど、どうなんだろか。いや著作権的には本当に攻めているのかもしれないけど、ネタの大半は30~40代、いや50代の人も反応出来るような古来のネタ(ガンダムジブリなど)で、むしろアラサーの私でも幾度も他で見たようなまあ使い古された感はぬぐえないものだ。そのパロのクオリティも、全力でマネるならまだ良いのだけど、「やらせていただきました」という言い訳が立つ「あえての粗さ」を狙ったようなラインで、手塚治虫宮崎駿庵野秀明にケンカを売っているというよりも甘えているような印象しか受けず、画面のこちら側に「なっ」的な目配せすら感じさせ、その度々に私の脆い精神がかき氷のようにゴリゴリ削られる音を、胸の内に聞くのである。そんな気の遠くなるようなパロネタが満載だった前作であったが、会場は笑いに包まれ雰囲気も良かったもので、見ている間に「みんな楽しそうだな……」という感慨が沸いてきて、思わず顔がほころんでしまう瞬間は確かにあったのである。そう、流され易い典型の人間。そしてパロネタに凍り付いてしまう私でも、「ああ、そのネタが好きなのね」という親近感くらいは沸いて来てしまうもの。私は笑えないけど相手も悪気があってしたわけでなし、自然作品に対する「親近感」に近い感情寄せてしまうわけで、存外福田監督の本領はその「親近感」にあるのかも知れないとすら思うのである。ハードルの低さと言い換えても良いが。まあ、そんなでそういった楽しそうさと親近感に惹かれて見に行ったのかと言われると、そんな気もするしそうでない気もする。対外的には、私が敬愛してやまない柳楽優弥のあまりに漫画的に格好つけてくれる姿に惹かれて、ということにしたいが、どうも違和感は残る。つらつら考えるに恐らくだが、「世間に迎合したい」という欲望みたいなものが私の中にあって、その欲が私の足を映画館に向かわせたのでは無いかと思う。普段はワンマンムービー派なので、観賞後は独りでひっそり自分の内に感情だの言葉だのを波のように漂わせているわけなのだが、たまには花火のように自分の内と外をあけっぴろげにしてみたいという気持ちは確かにあり、それが叶えば、劇場通いに身をやつす存在として何かが報われるのではないかという期待もまたあるのだ。「迎合」という言葉で立派に飾ってみたが、素直に言えば「皆が楽しい映画を私も好きになれればなあ」ということで、さながら文化祭に積極的に参加も出来ないが、別に当日休みもせず校舎でぼーっと何かを待っている学生のような心持なのである。

 

 というわけで『銀魂2 掟は破るためにこそある』観賞しました。前作よりずっと私に向いていました。というのも、パロ、メタなど苦手なギャグが控え目になり、前作で鬼のようにくどかった佐藤二朗も冒頭エピソードのみと、全体的に見やすくなっていたよに思う。とはいえ、前作にあったような作品のアクも無くなっていたので、そこは善し悪しか。アクション音痴な私だけど、終盤の離れた場所を動作で繋ぐ編集はおっとさせられ、ここは素直に楽しい、のだけど、その直後のザック・スナイダーもかくやのスロー連発で帳消しになってしまうのは惜しい。とはいえ、本来的に客じゃない人間にも見たいものは見せてくれたので(主に柳楽優弥の勇姿だが)、そこは素直にお礼を言いたい。ありがとう福田監督。『アオイホノオ』も大変好きです。何といっても今回も鑑賞中は劇場内に何度も笑いが起きていたし、終わった後の雰囲気も非常に良かったので、結局それが「正義」なのかも知れないという気はする。見所としては、もちろん柳楽優弥の啖呵も素晴らしかったし、吉沢亮の血ペロも健康体で跳び跳ねる窪田正孝もそれぞれうっとりなのだが、何よりも一番心を奪われたのは、佐藤二朗のあまりの佐藤二朗ぶりに耐えきれず、思わず素で吹き出してしまった長澤まさみの横顔だったりする。改めてありがとう福田監督、いつか私もお客さんにして下さい。