『ペンギン・ハイウェイ』 お姉さんへのロングウォーク

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 ※ネタバレなしだけど内容について話しています。

 

 郊外の小綺麗な住宅地にペンギンが現れ、その瞳に少年と年上のお姉さんが映し出される。彼は正面を向き、彼女の顔は奥へと逸れている。少年・アオヤマ君は、近所の「歯医者のお姉さん」に淡い思いというには余りにもくっきりと輪郭をもちはじめた感情を抱いている。それは、アオヤマ君が大人になる日までの日数を数えていることから分かるように、大人への憧れを抱くような季節の物語であり、同時にたぶん最後の一本であろう彼の乳歯がぐらつき、大人の歯へ移り変わる時期の話だ。そしてアオヤマ君のお姉さんへの目線と同じく、大人への道筋も一方通行であり、子供時代は不可逆、取返しのつかないものなのだ。とはいえ、子供時代とはここまで輪郭がくっきりしていて、大人の世界を意識したものだったかというと疑問はあるのだが、『ペンギン・ハイウェイ』自体、リアルな子供時代というよりは子供特有の勝手な思い込みの強さ、自分勝手さを純に突き詰めていくという構造なので、これで良いのかもなという気はする。それが作品の危うさと魅力につながっているのだとも。

 さて、冒頭アオヤマ君の語り「僕は大変賢くてエライ。将来はもっとエラくなってしまうので大変である」という、ほほえましくも幼稚で傲慢な考えにクスリとしつつ、この自己中心的な考えが挫かれ、アオヤマ君が外の世界の洗礼を受けるような、ありがちな展開なのかと思っていると、意外な方向にシフトしていくので少々面食らった。 確かにアオヤマ君は様々な困難に出会うが、基本的に「解決可能」という信念を貫き通し、思い込みは思い込みのまま乗り越えようとするもである。外の世界というよりも徹底して内的世界、子供がこれから出会うであろう他者でなく、子供にもすでに自分の世界が存在していて、困難によって外世界で挫折を味わうのではなく、内側を掘っていくことによってその地点からまず少年が前進しようと意思する構造は、ちょっと奇妙なだまし絵の様なアオヤマ少年の精神構造を物語っている。彼はそんなことは無いと思いつつも、世界のはてから流れてくる川の流れが、自分の近所にあるのではないかという少年の願望を語るが、それは映画が「謎」を解くことよりもむしろ、「謎」が自分の世界にはあって欲しいという願いについての物語であることにも重なる。セカイ系ということなのか、よく分からないけど、まあ誰でも思う「世界よ、そうあれかし」という子供らしいわがままだ。アオヤマ君が自分で言う通りエライ人間だとすれば、きっとそれは彼が賢いからではなく、自分がエライ人間であるという信じ込めるその意思の強さであり、将来もっとエラクなっているだろいうという前進を止めない姿勢にある。何となくだが、ファンタジー映画にしてはアオヤマ君自体は身体を動かすアクション少な目だし、自転車に乗って駆けまわったりもしない(夏休み映画と言えば自転車という浅はかな考え)、クライマックスなど、彼はほぼじっとしているだけだ。その辺りの描写はむしろ彼のどこまでも強硬にどっしりとした初志貫徹気質が表れているように思えてならない。

 さてアオヤマ君が突き進む「ペンギン」と「お姉さん」の謎が、「世界の果て」に繋がっているらしいと調査を進めるうちに、ふいに「死の概念」が立ち上がってくる瞬間が訪れ、作品の根幹部分にポッカリとした穴が開いたような不安が立ち上がってくる。この一連のシーンはとても素晴らしく、少年時代の憧憬の景色からいま大人になった私たちにも繋がる映画だと思わされる。子供が引き受ける「死」の途方もなさに、思わず息をのむ。そうアオヤマ君も死ぬのだ。絶食に1日も耐えられない彼の身体は、永遠に回り続ける不思議な川の流れとは違い、いつか終わりを迎える。彼が憧れた大人への道は、言ってしまえば死へ向かう道でもある。けれでもアオヤマ君は前進を止めることはきっと無い。「止めても行きます」。自分の世界に「果て」があることを知ってしまってもなお、やるべきことはきっとあるはずと思う。やがて終わる未来に対する希望があるとすれば、アオヤマ君にとってはそれが「お姉さん」であり、大人への憧れだけでなく、それは彼の人生の楽しいことの予感のようなものだ。その希望こそが彼の足を前へと進ませるのであろう。

 といったことで、『ペンギン・ハイウェイ』大変美しいジュブナイルであると私も思うのだが、いくつか気になった点も。多くの人がすでに指摘してるが、アオヤマ君が「お姉さん」のおっぱいを研究しているという部分、この年頃の男の子がおっぱいに興味を持つのは当然、という意見はまあ個人的に首肯できないものの認めるとして、例えばこの映画の主人公が女の子・ハマモトさんだったと想像したなら、彼女が年上の男の人に性的魅力を感じるのはどこだろうかという疑問がある。喉ぼとけか胸板か、それとも下着で隠す部分としてストレートに股間になるのか。何だかいずれも不均衡だ。要するに、私たちは創作物で「おっぱい」という女性の所有物を気安く消費し過ぎなのでは無いかという問いがあって、合わせて思い起こすと、男の子であるアオヤマ君の自由研究が永遠性を得るのに比べて、ハマモトさんの研究が嫉妬と「好きの裏返し」という暴力によって失敗してしまうのも、なにやら別の意味をくみ取ってしまいそうになる。そもそも、アオヤマ君が純粋な好奇心や興味でお姉さんのおっぱいを研究しているとしても、作っているスタッフは成人男性もいるワケで、アオヤマ君を盾にとってこれは少年心の表れなんですよと言われても、そう思えない人にとっては少年心詐欺としか受け取れない。

 そしてもう1点「お姉さん」という役名。そうお姉さんには名前がない。『夜は短し歩けよ乙女』と同じパターン(原作と脚本が同じ)。お姉さんはアオヤマ君のことを「少年」と呼び、そしてペンギンにも個々には名前がない。その時点で私は「ははーん、これは概念としてのお姉さんと少年の物語だな」と思ったわけだが、思った以上にメーターを振り切ってそっちの方面に突入したので驚いてしまった。ただ概念上の存在としては、お姉さんは人間性を持たされて過ぎてしまっているのに、お姉さんの言動があまりにもアオヤマ君にとって都合が良すぎるように思えて気になってしまう。お姉さんにも名前があって、お姉さんのおっぱいはお姉さんのものだし、お姉さんの人生はお姉さんのものではないのか、という認識が子供のファンタジーによって犠牲になり、美しい世界の鍵として存在させられてしまっているのではないかと。その辺りちょっと立ち止まって考えてみてもいいのではないかと思わないでもない。個人的な性癖だが、この映画のラスト、数年後にアオヤマ君はお姉さんにたどり着くが、彼女は彼氏と一緒であり、彼がお姉さんの名前を呼ぶところで終っていれば完璧かなと思うが、それは単に私の性癖である。

 ところで、ペンギンに名前は無いといったが、作中唯一ペンギンに名前を付けた人がいる。私はこれがアオヤマ君とその人が同質でファンタジーに乗らず対等な関係であるという示唆であると感じたのだが(実際そのような節もあるし)、もう少し分かりやすく話の芯に関わってきても良かったかなと思う。アオヤマ君がこのまま、大学生になったら村上春樹の小説のようにとらわれた存在になってしまう未来しか私には見えないので、お姉さんより彼のような人こそ大切にして欲しいなと、私は切に願う。