ジョジョリオン 祝福と呪いと男性同士での出産の試み

※最終回の内容の話はしてませんが、中盤までの展開に触れています

 足掛け10年、気が付けば『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズで歴代最長期間、最多巻数を重ねていた第8部『ジョジョリオン』が終わった。終わってしまった。これまでに比べても苦しく、息がつまるようなシリーズであった。ジョジョの部の終幕にはいつも特別な感情を呼び起こされるが、今回は特に話の複層性に加え、いつもにましてこんがらがった展開、ちょっとまとめきれていないなと思えるような部分もあってか、私の内にまだ言葉として到達できていない様々な感情が、そのままとして沸いて来ているといった感じで、正直まだ何か語りだせるような状態ではないけど、衝動として、喜怒哀楽あるいはそれ以外のどれともすぐに判別のつなかない感情の「量」の多さへの戸惑いとして、記して置きたいと思う。私にとってはそういう作品だった。間違いないのは今回のシリーズも心動かされる場面がいくつもあったということ。それは決して揺らがない。

 というわけで、読み終わったいまの混乱と感動の頭脳のままでの具体的な話は避けたいが、取り分け感情的に作品の一つのピークとして描かれている「吉影と仗世文の結合」についてちょっと言及すると、「これは呪いを解く物語」と宣言して始まったこのシリーズにおいて、この「呪い」というのは表層的には「東方家に掛かった呪いを解く」ということであったのだけど、それだけにとどまらず、その宣言の一つとしてこの結合が男性同士による妊娠・出産のイメージだということもあったのではなかったのかなという思いがある。それは東方家のように「強い男」を志向して子を苦しめる家族制度でもなく、社会に心身を寄生させ「等価交換」という名のもとに簒奪する岩人間とも違った存在のあり方ではないかという問いだ。

 ややこしいことに作中には「等価交換」と言われる現象が3つほど登場する。①ジョニィ・ジョースターが利用した聖なる遺体、②壁の目の「レモンとみかん」、③ロカカカの実の3つ。いや、さらに壁の目などの影響を受けた新ロカカカの実もあるから4つかも知れない。この辺りは良く分かんないが。ただ思うのは「吉影と仗世文の結合」はどこか上記の3つ乃至4つの「等価交換」とは外れるような気が強くしている。なぜなら可能性として、定助は吉影でも仗世文でもない存在と度々提示されているから。吉良でも仗世文でもない存在であれば、定助は2者の間での「交換」によって修復された者ではないと見ることも出来るからだ。ちょっと言葉遊び的かもしれないけど、それでも男性同士の間に生まれた存在が定助であるという仮説は、上記の3つ乃至4つの現象が、東方家や岩人間たちの理論に回収されてしまうことを考えれば、そのカウンターとして機能しうるのではないかという思いがある(ジョニィの行為も結果だけを見れば家の存続という枠に回収されてしまうのかも)

 そして、それは登場する岩人間が全員オスであり、岩人間の多くが人間の女性との恋愛関係をうまく築けず、騙したり騙されたりと破局している点にも及ぶ考え方だ。作中の大半の岩人間に、女性を襲うシーンがあることも偶然ではないんじゃないかなと思う(ドロミテは直接はなかった気がするけど、彼はまた別の厄介な「幻想」という問題を抱えている)。母に捨てられ、仮の母である女王蜂に同化し社会に生まれ落ちた岩人間は、母を求めても誰とも関係を結べずそのまま女性を嫌悪する存在になるということなのか分からないが、中でも岩人間:羽伴毅の攻撃は女性への性的な暴力と重なるような印象で、おそらく掲載していたのが少年誌だったら、ここまで露骨な描写はなされていなかっただろうと想像される。このあたりは前作SBRでのルーシーへのとてもグロテスクな暴力と呼応するようで、第7部途中から掲載が青年誌へ移ったことも影響しているのではないかと思う。そうした彼らがけしかける「等価交換」はやはり肉体の部位交換にとどまるとしても簒奪の陰を帯びている。そもそもとして、他者へ傷や痛みや呪いを一方的に押し付ける行為までいくと、それは「等価交換」と呼べないのではないかという疑いもあるワケなのだが。

 というわけで、血統で繋がる従来の家制度でもなく、女性を攻撃する岩人間のような連中が寄生する硬直した社会でもなく、そこを越えていける存在としての主人公象を考えた時に、「男性同士での出産」というイメージが一つあったのではないかなというのが、ぼんやりとしているけど、現状での私見である。さっきから「思う」とか「気がする」といった言葉が多く自分の中でも不定形だが、確かなのはジョジョという作品の中核をなす「継ぐ」という聖の部分も邪悪な部分も、時には失敗も繰り返し試され描かれ来ているということだ。

 最終回周り、特にホリーさん、つるぎちゃんに関してもいろいろ言いたいことはあるが、言葉として取り出すのはやはり難しい。いつか話せるようになったら良いなと思う。思えばこれまでもジョジョの部の終わりを受け止めるまでには、ある程度の時間が必要だった。納得いかなさも訳のわからなさも、それが氷解するというわけでは無く、その納得いかなさと理解できなさがそのまま馴染んでいく感覚が常にあったのだ。それでも言葉以前の興奮や感動は変わらずにあって、それが自分を常に引き付けている。そうした「引力」を感じる。『ジョジョリオン』は終わってしまったが、私には『ジョジョリオン』があったということが大事だし、『ジョジョリオン』がこれからも存在しているという事はもっと重要だ。いつか私の考えが変わって、作品に対してまた別の感情を持つということもあるかもしれないが、それでも重要だと思う。作品から生まれてくる「感情」を、乏しくても言葉に出来るようになるまでに、遅すぎるという事はないと思うから。

 ともあれ、『ジョジョリオン』完結、荒木先生お疲れ様でした。不届きな1人のファンとしてあなたの作品をいつの時代も楽しませていただきます。