ジョジョリオン 祝福と呪いと男性同士での出産の試み

※最終回の内容の話はしてませんが、中盤までの展開に触れています

 足掛け10年、気が付けば『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズで歴代最長期間、最多巻数を重ねていた第8部『ジョジョリオン』が終わった。終わってしまった。これまでに比べても苦しく、息がつまるようなシリーズであった。ジョジョの部の終幕にはいつも特別な感情を呼び起こされるが、今回は特に話の複層性に加え、いつもにましてこんがらがった展開、ちょっとまとめきれていないなと思えるような部分もあってか、私の内にまだ言葉として到達できていない様々な感情が、そのままとして沸いて来ているといった感じで、正直まだ何か語りだせるような状態ではないけど、衝動として、喜怒哀楽あるいはそれ以外のどれともすぐに判別のつなかない感情の「量」の多さへの戸惑いとして、記して置きたいと思う。私にとってはそういう作品だった。間違いないのは今回のシリーズも心動かされる場面がいくつもあったということ。それは決して揺らがない。

 というわけで、読み終わったいまの混乱と感動の頭脳のままでの具体的な話は避けたいが、取り分け感情的に作品の一つのピークとして描かれている「吉影と仗世文の結合」についてちょっと言及すると、「これは呪いを解く物語」と宣言して始まったこのシリーズにおいて、この「呪い」というのは表層的には「東方家に掛かった呪いを解く」ということであったのだけど、それだけにとどまらず、その宣言の一つとしてこの結合が男性同士による妊娠・出産のイメージだということもあったのではなかったのかなという思いがある。それは東方家のように「強い男」を志向して子を苦しめる家族制度でもなく、社会に心身を寄生させ「等価交換」という名のもとに簒奪する岩人間とも違った存在のあり方ではないかという問いだ。

 ややこしいことに作中には「等価交換」と言われる現象が3つほど登場する。①ジョニィ・ジョースターが利用した聖なる遺体、②壁の目の「レモンとみかん」、③ロカカカの実の3つ。いや、さらに壁の目などの影響を受けた新ロカカカの実もあるから4つかも知れない。この辺りは良く分かんないが。ただ思うのは「吉影と仗世文の結合」はどこか上記の3つ乃至4つの「等価交換」とは外れるような気が強くしている。なぜなら可能性として、定助は吉影でも仗世文でもない存在と度々提示されているから。吉良でも仗世文でもない存在であれば、定助は2者の間での「交換」によって修復された者ではないと見ることも出来るからだ。ちょっと言葉遊び的かもしれないけど、それでも男性同士の間に生まれた存在が定助であるという仮説は、上記の3つ乃至4つの現象が、東方家や岩人間たちの理論に回収されてしまうことを考えれば、そのカウンターとして機能しうるのではないかという思いがある(ジョニィの行為も結果だけを見れば家の存続という枠に回収されてしまうのかも)

 そして、それは登場する岩人間が全員オスであり、岩人間の多くが人間の女性との恋愛関係をうまく築けず、騙したり騙されたりと破局している点にも及ぶ考え方だ。作中の大半の岩人間に、女性を襲うシーンがあることも偶然ではないんじゃないかなと思う(ドロミテは直接はなかった気がするけど、彼はまた別の厄介な「幻想」という問題を抱えている)。母に捨てられ、仮の母である女王蜂に同化し社会に生まれ落ちた岩人間は、母を求めても誰とも関係を結べずそのまま女性を嫌悪する存在になるということなのか分からないが、中でも岩人間:羽伴毅の攻撃は女性への性的な暴力と重なるような印象で、おそらく掲載していたのが少年誌だったら、ここまで露骨な描写はなされていなかっただろうと想像される。このあたりは前作SBRでのルーシーへのとてもグロテスクな暴力と呼応するようで、第7部途中から掲載が青年誌へ移ったことも影響しているのではないかと思う。そうした彼らがけしかける「等価交換」はやはり肉体の部位交換にとどまるとしても簒奪の陰を帯びている。そもそもとして、他者へ傷や痛みや呪いを一方的に押し付ける行為までいくと、それは「等価交換」と呼べないのではないかという疑いもあるワケなのだが。

 というわけで、血統で繋がる従来の家制度でもなく、女性を攻撃する岩人間のような連中が寄生する硬直した社会でもなく、そこを越えていける存在としての主人公象を考えた時に、「男性同士での出産」というイメージが一つあったのではないかなというのが、ぼんやりとしているけど、現状での私見である。さっきから「思う」とか「気がする」といった言葉が多く自分の中でも不定形だが、確かなのはジョジョという作品の中核をなす「継ぐ」という聖の部分も邪悪な部分も、時には失敗も繰り返し試され描かれ来ているということだ。

 最終回周り、特にホリーさん、つるぎちゃんに関してもいろいろ言いたいことはあるが、言葉として取り出すのはやはり難しい。いつか話せるようになったら良いなと思う。思えばこれまでもジョジョの部の終わりを受け止めるまでには、ある程度の時間が必要だった。納得いかなさも訳のわからなさも、それが氷解するというわけでは無く、その納得いかなさと理解できなさがそのまま馴染んでいく感覚が常にあったのだ。それでも言葉以前の興奮や感動は変わらずにあって、それが自分を常に引き付けている。そうした「引力」を感じる。『ジョジョリオン』は終わってしまったが、私には『ジョジョリオン』があったということが大事だし、『ジョジョリオン』がこれからも存在しているという事はもっと重要だ。いつか私の考えが変わって、作品に対してまた別の感情を持つということもあるかもしれないが、それでも重要だと思う。作品から生まれてくる「感情」を、乏しくても言葉に出来るようになるまでに、遅すぎるという事はないと思うから。

 ともあれ、『ジョジョリオン』完結、荒木先生お疲れ様でした。不届きな1人のファンとしてあなたの作品をいつの時代も楽しませていただきます。

『検察側の罪人』 ありあまる富と正義

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原田監督の映画はあまり見た記憶がないので、真っ先にあまりにもノイズが多い作品だなということを思った。ただ、雑多で意味がない演出というよりも、監督の目にはいまの日本はこれほど珍妙で不釣り合いで、混沌に満ちているように見えるのではないかと信じてしまいそうになるほどの妙に迫真性があり、最上が見たこともない高級料理を食べていても、ヤクザが改憲論議をしてても、それがいまの日本をスクリーンに保存しておきたいという、映画監督の特権を使用したという趣もあって、意外とすんなり受け入れられてしまった。逆に、検察の話なのに伊藤詩織さんの話題が出てこないという方がおかしいとすら思えてくるのだが、それはちょっと映画に寄りすぎなのかもしれない。とはいえ木村拓哉の「引くな引くな」が本当に馬鹿みたいに格好よくて、ノイズだろうがこれはあって欲しいものだと思ったのも確かなのだ。

最上の性格は松倉の部屋を捜査した時の表情に現れていて、それは貧困というより汚辱に対する無理解であり、その顔のしかめ方が松倉への嫌悪感よりも、「なぜこんな生活を」といった風のように見えて、「ああこの人はやっぱり体制側の人なんだな」とスクリーンを見ながら私はこのあたりで確信したのであった。戦争反対という現政権批判のスタンスによりながら、私憤に身を焦がす行為にどちらにも最上が「正義」を見出しうるのも、彼のある種この鈍感な性質によって立つところなのだと思う。お金も、正義も、多いに越したことはないというワケだ。とすれば、沖野は最上にとって対抗する正義ではなく、彼自身のかつての正義の声を届ける役であったのかも知れない。そういった意味で木村拓哉二宮和也も良かったが、そもそも佇まいとして二人はどこか影を抱えているように思えるし、どちらかというと俳優配置としての妙でもあったと思う。その点で言ったらメフィストフェレス的な松重豊が素晴らしいのは言うまでもないことだが。ただ、私がMVPだと思っているのは映画を決めた二宮の「忘れるわけないだろ……」であり、本編の文脈上主語が誰であったか判明した瞬間に、ああこれは良い青春映画であったのかという感慨にあふれ、映画が始まる前には持ってすらいなかったものの、奇妙な喪失感を強く覚えたのだった。

『ペンギン・ハイウェイ』 お姉さんへのロングウォーク

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 ※ネタバレなしだけど内容について話しています。

 

 郊外の小綺麗な住宅地にペンギンが現れ、その瞳に少年と年上のお姉さんが映し出される。彼は正面を向き、彼女の顔は奥へと逸れている。少年・アオヤマ君は、近所の「歯医者のお姉さん」に淡い思いというには余りにもくっきりと輪郭をもちはじめた感情を抱いている。それは、アオヤマ君が大人になる日までの日数を数えていることから分かるように、大人への憧れを抱くような季節の物語であり、同時にたぶん最後の一本であろう彼の乳歯がぐらつき、大人の歯へ移り変わる時期の話だ。そしてアオヤマ君のお姉さんへの目線と同じく、大人への道筋も一方通行であり、子供時代は不可逆、取返しのつかないものなのだ。とはいえ、子供時代とはここまで輪郭がくっきりしていて、大人の世界を意識したものだったかというと疑問はあるのだが、『ペンギン・ハイウェイ』自体、リアルな子供時代というよりは子供特有の勝手な思い込みの強さ、自分勝手さを純に突き詰めていくという構造なので、これで良いのかもなという気はする。それが作品の危うさと魅力につながっているのだとも。

 さて、冒頭アオヤマ君の語り「僕は大変賢くてエライ。将来はもっとエラくなってしまうので大変である」という、ほほえましくも幼稚で傲慢な考えにクスリとしつつ、この自己中心的な考えが挫かれ、アオヤマ君が外の世界の洗礼を受けるような、ありがちな展開なのかと思っていると、意外な方向にシフトしていくので少々面食らった。 確かにアオヤマ君は様々な困難に出会うが、基本的に「解決可能」という信念を貫き通し、思い込みは思い込みのまま乗り越えようとするもである。外の世界というよりも徹底して内的世界、子供がこれから出会うであろう他者でなく、子供にもすでに自分の世界が存在していて、困難によって外世界で挫折を味わうのではなく、内側を掘っていくことによってその地点からまず少年が前進しようと意思する構造は、ちょっと奇妙なだまし絵の様なアオヤマ少年の精神構造を物語っている。彼はそんなことは無いと思いつつも、世界のはてから流れてくる川の流れが、自分の近所にあるのではないかという少年の願望を語るが、それは映画が「謎」を解くことよりもむしろ、「謎」が自分の世界にはあって欲しいという願いについての物語であることにも重なる。セカイ系ということなのか、よく分からないけど、まあ誰でも思う「世界よ、そうあれかし」という子供らしいわがままだ。アオヤマ君が自分で言う通りエライ人間だとすれば、きっとそれは彼が賢いからではなく、自分がエライ人間であるという信じ込めるその意思の強さであり、将来もっとエラクなっているだろいうという前進を止めない姿勢にある。何となくだが、ファンタジー映画にしてはアオヤマ君自体は身体を動かすアクション少な目だし、自転車に乗って駆けまわったりもしない(夏休み映画と言えば自転車という浅はかな考え)、クライマックスなど、彼はほぼじっとしているだけだ。その辺りの描写はむしろ彼のどこまでも強硬にどっしりとした初志貫徹気質が表れているように思えてならない。

 さてアオヤマ君が突き進む「ペンギン」と「お姉さん」の謎が、「世界の果て」に繋がっているらしいと調査を進めるうちに、ふいに「死の概念」が立ち上がってくる瞬間が訪れ、作品の根幹部分にポッカリとした穴が開いたような不安が立ち上がってくる。この一連のシーンはとても素晴らしく、少年時代の憧憬の景色からいま大人になった私たちにも繋がる映画だと思わされる。子供が引き受ける「死」の途方もなさに、思わず息をのむ。そうアオヤマ君も死ぬのだ。絶食に1日も耐えられない彼の身体は、永遠に回り続ける不思議な川の流れとは違い、いつか終わりを迎える。彼が憧れた大人への道は、言ってしまえば死へ向かう道でもある。けれでもアオヤマ君は前進を止めることはきっと無い。「止めても行きます」。自分の世界に「果て」があることを知ってしまってもなお、やるべきことはきっとあるはずと思う。やがて終わる未来に対する希望があるとすれば、アオヤマ君にとってはそれが「お姉さん」であり、大人への憧れだけでなく、それは彼の人生の楽しいことの予感のようなものだ。その希望こそが彼の足を前へと進ませるのであろう。

 といったことで、『ペンギン・ハイウェイ』大変美しいジュブナイルであると私も思うのだが、いくつか気になった点も。多くの人がすでに指摘してるが、アオヤマ君が「お姉さん」のおっぱいを研究しているという部分、この年頃の男の子がおっぱいに興味を持つのは当然、という意見はまあ個人的に首肯できないものの認めるとして、例えばこの映画の主人公が女の子・ハマモトさんだったと想像したなら、彼女が年上の男の人に性的魅力を感じるのはどこだろうかという疑問がある。喉ぼとけか胸板か、それとも下着で隠す部分としてストレートに股間になるのか。何だかいずれも不均衡だ。要するに、私たちは創作物で「おっぱい」という女性の所有物を気安く消費し過ぎなのでは無いかという問いがあって、合わせて思い起こすと、男の子であるアオヤマ君の自由研究が永遠性を得るのに比べて、ハマモトさんの研究が嫉妬と「好きの裏返し」という暴力によって失敗してしまうのも、なにやら別の意味をくみ取ってしまいそうになる。そもそも、アオヤマ君が純粋な好奇心や興味でお姉さんのおっぱいを研究しているとしても、作っているスタッフは成人男性もいるワケで、アオヤマ君を盾にとってこれは少年心の表れなんですよと言われても、そう思えない人にとっては少年心詐欺としか受け取れない。

 そしてもう1点「お姉さん」という役名。そうお姉さんには名前がない。『夜は短し歩けよ乙女』と同じパターン(原作と脚本が同じ)。お姉さんはアオヤマ君のことを「少年」と呼び、そしてペンギンにも個々には名前がない。その時点で私は「ははーん、これは概念としてのお姉さんと少年の物語だな」と思ったわけだが、思った以上にメーターを振り切ってそっちの方面に突入したので驚いてしまった。ただ概念上の存在としては、お姉さんは人間性を持たされて過ぎてしまっているのに、お姉さんの言動があまりにもアオヤマ君にとって都合が良すぎるように思えて気になってしまう。お姉さんにも名前があって、お姉さんのおっぱいはお姉さんのものだし、お姉さんの人生はお姉さんのものではないのか、という認識が子供のファンタジーによって犠牲になり、美しい世界の鍵として存在させられてしまっているのではないかと。その辺りちょっと立ち止まって考えてみてもいいのではないかと思わないでもない。個人的な性癖だが、この映画のラスト、数年後にアオヤマ君はお姉さんにたどり着くが、彼女は彼氏と一緒であり、彼がお姉さんの名前を呼ぶところで終っていれば完璧かなと思うが、それは単に私の性癖である。

 ところで、ペンギンに名前は無いといったが、作中唯一ペンギンに名前を付けた人がいる。私はこれがアオヤマ君とその人が同質でファンタジーに乗らず対等な関係であるという示唆であると感じたのだが(実際そのような節もあるし)、もう少し分かりやすく話の芯に関わってきても良かったかなと思う。アオヤマ君がこのまま、大学生になったら村上春樹の小説のようにとらわれた存在になってしまう未来しか私には見えないので、お姉さんより彼のような人こそ大切にして欲しいなと、私は切に願う。

その映画を観ないという選択肢もあったのですよ

映画『銀魂2 掟は破るためにある』

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 何故この映画を見るのかという問いは、この映画を見ること以上に私にとっては重要かもしれない。というのも、私はこの映画の本来的な客ではないからだ。原作ファンというわけでもないし、監督の福田雄一のファンというわけでもない。前作といくつかの諸作を見るに、福田監督の笑いは、なんというか非常に大仰かつベタなもので、どっちかというとテレビのバラエティ番組に近いノリの笑いである(監督の出自を考えればさもありなん)。『銀魂』ではさらに原作やアニメ由来なのか色々なパロディネタが加わるのだが、これが私には地獄のように気恥ずかしく思えてついスクリーンから顔を背けてしまいたい衝動に駆られてしまう。このパロネタの数々、「攻めた」ネタとして巷間では言われているけど、どうなんだろか。いや著作権的には本当に攻めているのかもしれないけど、ネタの大半は30~40代、いや50代の人も反応出来るような古来のネタ(ガンダムジブリなど)で、むしろアラサーの私でも幾度も他で見たようなまあ使い古された感はぬぐえないものだ。そのパロのクオリティも、全力でマネるならまだ良いのだけど、「やらせていただきました」という言い訳が立つ「あえての粗さ」を狙ったようなラインで、手塚治虫宮崎駿庵野秀明にケンカを売っているというよりも甘えているような印象しか受けず、画面のこちら側に「なっ」的な目配せすら感じさせ、その度々に私の脆い精神がかき氷のようにゴリゴリ削られる音を、胸の内に聞くのである。そんな気の遠くなるようなパロネタが満載だった前作であったが、会場は笑いに包まれ雰囲気も良かったもので、見ている間に「みんな楽しそうだな……」という感慨が沸いてきて、思わず顔がほころんでしまう瞬間は確かにあったのである。そう、流され易い典型の人間。そしてパロネタに凍り付いてしまう私でも、「ああ、そのネタが好きなのね」という親近感くらいは沸いて来てしまうもの。私は笑えないけど相手も悪気があってしたわけでなし、自然作品に対する「親近感」に近い感情寄せてしまうわけで、存外福田監督の本領はその「親近感」にあるのかも知れないとすら思うのである。ハードルの低さと言い換えても良いが。まあ、そんなでそういった楽しそうさと親近感に惹かれて見に行ったのかと言われると、そんな気もするしそうでない気もする。対外的には、私が敬愛してやまない柳楽優弥のあまりに漫画的に格好つけてくれる姿に惹かれて、ということにしたいが、どうも違和感は残る。つらつら考えるに恐らくだが、「世間に迎合したい」という欲望みたいなものが私の中にあって、その欲が私の足を映画館に向かわせたのでは無いかと思う。普段はワンマンムービー派なので、観賞後は独りでひっそり自分の内に感情だの言葉だのを波のように漂わせているわけなのだが、たまには花火のように自分の内と外をあけっぴろげにしてみたいという気持ちは確かにあり、それが叶えば、劇場通いに身をやつす存在として何かが報われるのではないかという期待もまたあるのだ。「迎合」という言葉で立派に飾ってみたが、素直に言えば「皆が楽しい映画を私も好きになれればなあ」ということで、さながら文化祭に積極的に参加も出来ないが、別に当日休みもせず校舎でぼーっと何かを待っている学生のような心持なのである。

 

 というわけで『銀魂2 掟は破るためにこそある』観賞しました。前作よりずっと私に向いていました。というのも、パロ、メタなど苦手なギャグが控え目になり、前作で鬼のようにくどかった佐藤二朗も冒頭エピソードのみと、全体的に見やすくなっていたよに思う。とはいえ、前作にあったような作品のアクも無くなっていたので、そこは善し悪しか。アクション音痴な私だけど、終盤の離れた場所を動作で繋ぐ編集はおっとさせられ、ここは素直に楽しい、のだけど、その直後のザック・スナイダーもかくやのスロー連発で帳消しになってしまうのは惜しい。とはいえ、本来的に客じゃない人間にも見たいものは見せてくれたので(主に柳楽優弥の勇姿だが)、そこは素直にお礼を言いたい。ありがとう福田監督。『アオイホノオ』も大変好きです。何といっても今回も鑑賞中は劇場内に何度も笑いが起きていたし、終わった後の雰囲気も非常に良かったので、結局それが「正義」なのかも知れないという気はする。見所としては、もちろん柳楽優弥の啖呵も素晴らしかったし、吉沢亮の血ペロも健康体で跳び跳ねる窪田正孝もそれぞれうっとりなのだが、何よりも一番心を奪われたのは、佐藤二朗のあまりの佐藤二朗ぶりに耐えきれず、思わず素で吹き出してしまった長澤まさみの横顔だったりする。改めてありがとう福田監督、いつか私もお客さんにして下さい。

2017年映画 ベスト10

おことわり

 今さら臆面もなくお届けする2017年映画ベストですが、まずは「ベスト」の基準についてお話ししておきます。要するに「何故この10本でなければ行けないのか」というどこまでも根本の話です。この10本の映画、単に「面白い」順に並べたわけではありません。かと言って「好き」順でもありません。面白い映画ベストなら、どっかの映画雑誌なりなんなりを開けば見られるでしょう。好きな映画ベストも、自分の好きにイマイチ自信が持てない私としては、いつまでも決められずに年が暮れてしまう可能性があるのでやめました。言ってしまえば、このベストは私が「えこひいきしたい」と思った映画ベストです。一番面白いわけでは無いかもしれない、かと言って一番好きでもないかもしれない、でも情が移ってしまったので捨てるに捨てきれない感じで私の心に残り続けている映画。そんなの10本並べてみました。とはいえ普通に面白くて好きな映画もあるんですが、まあ基準としてはそんな感じ。

 

 

【10位】カンフー・ヨガ

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 ジャッキー映画に造詣が深くない私にとって、展開のあまりの雑さと陽気さに大きな文化的ショックを受けてしまった映画です。ジャッキーが考古学の権威であるという設定のジャブから始まって動物、ギャグ、カンフーのてんこ盛り。目のごちそうというか、ひたすら愛でたい目出度い引き出物のようなありがたさが画面に迸っています。特にインドと中国の友好を願うような展開からの、唐突に降臨する桃源郷のようなラストを私は一生忘れないでしょう。嗚呼まぶたを閉じればジャッキーの笑顔と踊りだけがよみがえる、そんな素敵な映画です。あと、どうでもいいんですけど動物が兎に角いっぱい出てくるのはジャッキーの趣味なんでしょうか。

 

【9位】打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

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 結構あることと思いますが、苦手だろうなという映画を見に行って、思いのほか良かった時の好感度がとてつもなく上がる現象の好例。90年代初頭のドラマ(映画)を下敷きにしながらも、あまりノスタルジーに寄らなかったのも良かったと思う。あと個人的に最近のアニメや映画の「エモさ」表現に安易さを感じることもあったので、こういった子供の幼稚さ、愚かさをキッチリ描いてくれたのも好印象です。テーマとしてやっぱり古臭いけど、自転車、プール、待合室など絵的に見せるところは見せていくし、最後は「未来」を予感させる終わりにちゃんとなっていく。子供という不確かな時期の記憶を焼きつけるような映画は、少年少女がいる限りは、残っていて欲しいと願ってしまうのです。

 

【8位】人生フルーツ

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 丁寧な生活というものをカメラで切り取っていくと、それだけで豊かな映画になってしまう。ということ。一人の人間のうちにこれほどの愛と悲しみと夢が詰まっているのか、決してカメラに映りえないものまで、この映画はうっかり映してしまったのではないか、スクリーンを見ながらひそかに慄きました。ラストシーンは『風の谷のナウシカ』のようにしたかったという製作者の言葉。ドキュメンタリーとして撮られた、とても優れた「物語映画」です。

 

【7位】トンネル 闇に鎖された男

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 ペ・ドゥナが出ているので7位。

 

 だけでなくボロボロにされる運命を背負ったハ・ジョンウがボロボロになっていく様を見てるだけで辛くて楽しいし、愁嘆場も見せ場も特撮もガンガン盛っていくぞという近年の韓国映画の強みをこれでもかと叩き付けられる。閉所パニックものは数多の先行作品があるので、色々と工夫してみせていかなければならないところ、この映画の場合は、現政権や社会体制に目が向いている所が興味深いです。韓国のソーシャルパワーを思わせる。でもまあ、ペ・ドゥナが出てるのでどうしたってひいきします。

 

 【6位】HiGH&LOW THE MOVIE2/END OF SKY HiGH&LOW THE MOVIE3/FINAL MISSION

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  ハイローをえこひいきしていない人っているの? いや、そう言うと怒られるかも知れないですが待ってほしい。ハイローは決して「出来の良い映画」では無いです。でも、熱い台詞に熱い展開、そしてなりより熱い戦いの数々で魅了された観客たちの「推したい」「こいつらをもっと見たい」という熱い気持ちが、ここまでのムーブメントを起こしてきたのではないかと思っているのですよね。まずもって「誰を推すか」という所がハイローの入り口というのもありますし。そう、そういう意味でいくら下駄をはかせても足りないくらい素晴らしい作品だと、自信をもって言えるのであります。個人的に青春の決着を描いたザム3も含めてベスト。推しは鬼邪高校です。

 

【5位】ハードコア

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 「こういうジャンルの映画なのかな」とある種見くびって観賞してしまって、ものの見事にノックアウトされた怪作。ゲームに興じて育った人間を肯定してくれるような面もあって、ああ、あの時一緒にゲームした友達、いまはどうしてるかなという感傷的な気持ちにもなりました。人生というゲームには2Pプレイもある。

 

【4位】ローガン・ラッキー

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 見終わった直後の直観は「化学方程式を眺めているうちにいつの間にか詩になっていた」みたいな感覚。映画の魔法。こういう人間がいてこういう家族がある、職業があるから、泥棒がいる。化学式があるから爆弾がある。この世界の成り立ちを映画という影から裏写ししていくように。そしてウェストヴァージニアといえばのあの歌、あれがみんなに少しずつ広がっていくのが、まさにこの映画だなと。先のない未来でも、「みんな」で一緒になんとか進むしかないのです。

 

【3位】希望のかなた

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 本当にえこひいきしたい映画はあんまり語ることがないのです。人間を人間として扱うという、ただ当たり前の事と、それに逆行するかのような現実を思い、グッと心の扉を掴まれました。カウリスマキの映画は常にメランコリックな画面なのに(だから?)所作の一つ一つに血が通っているようで、見るたびに私も生まれ直したような気持ちになります。

 

【2位】スプリット

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 シャマラン、あなたって人は……。

 

 

 

 

【1位】ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない第一章

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 えこひいきベスト・オブ・ザ・イヤー。映画として見過ごせない瑕疵もある作品だと思いますが、そんなの全く関係ない。問題にならない。原作の大ファンとして私は断言するけど、こんなに原作の「核」を大切にしている映画化ってないですよ。第四部からということでジョースターの血統をくどくど描かず、「東方家の血統」で受け継がれる正義を描こうとしたことも、アンジェロ・形兆の合わせ鏡のような関係も、恐れずに行った改変が全てはまっています。何より、この映画、製作者と三池さんが「原作を超えよう」という気持ちで作ったように思えてならなくて、それが人生捧げた漫画のファンの自分としてはとても嬉しかったのですよね。何故ならジョジョとは挑戦と勇気の物語なのだから。何かと難しい実写化の問題ですが、原作の精神をアップデートしてくれる映画ならば、どこまでも歓迎していきたいものです。三池さん、スタッフの皆さん、役者のみなさんの勇気に、私は敬意を表します。でも企画考えた奴は許しません。

 

 ところで『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない第一章』DVD、BDは3/23発売だそうなので、ジョジョファンでまだ見てない人がいれば見ればいいじゃない。私は妹と周囲のジョジョファンに買って配ります。だって三池監督の撮る吉良吉影が見たいから!

 

 

2017年映画ベスト

10位『カンフー・ヨガ

9位『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

8位『人生フルーツ』

7位『トンネル 闇に鎖された男』

6位『ハイロー ザム2、3』

5位『ハードコア』

4位『ローガン・ラッキー

3位『希望のかなた

2位『スプリット』

1位『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない第一章』

 

『けものフレンズ』11話  壮大でちっぽけな旅の終わり

 

 

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 けものフレンズ』11話までのネタバレをしています。

 

 いま『けものフレンズ』というアニメから目を離せないでいます。世間の一部では話題になっているようですが、なぜ流行っているのか、その理由は誰も分かっていないよう。私自身、なぜこんなにもこのアニメが心の奥にドシンと居座ったまま、離れてくれないのか非常に気になっています。「ヒトが滅びた後の世界」のヒトの象徴たるかばんちゃんと、「サーバルキャットの人間化」であるサーバルちゃん、二人の絆と旅の物語。そう思うと、昔から良くあるパターンの話と言えるかもしれません(『指輪物語』などのように)。

 この二人の関係性が素敵です。ネットを覗くと、二人のファン絵が多く見られますが、サーバルちゃんが「猫的」にかばんちゃんに甘えたり、抱きついたりと「いかにもな」構図が多いですが、公式アニメでは二人がそうして仲良くしたり、スキンシップをしたりなどの描写はほぼありません。どちらかというと、「ただ傍にいる」「同じものを見ている」という横並び的な二人のたたずまいが私は真っ先に思い浮かびます。そう二人はヒトとペットでは無く、対等な「友達」なのだから。そんな妙な距離感と、それでいて確かに二人の間にある結びつきの強さが、見ていて「心地よさ」を感じる理由なのかもしれません。そしてそれは、製作者が視聴者を「これぐらいの描写があれば関係性を読み取ってくれるはず」という信頼している証でもあるように思えて、見ているこちら側の背筋もピッと伸びるような気持ちになります。

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◆11話「決意と足跡」

 そんな二人の関係に焦点を電撃的な形で当てたのが11話でした。11話「せるりあん」ラストの衝撃が凄まじすぎて、多くのフレンズを苦しめているようです。私としても凶悪な中毒ドラマ『ブレイキング・バッド』のシーズン3のラストに比肩するダメージを食らってしまいました。

 ただ、この11話はそれ以上に重要なことが描かれていました。それは「かばんちゃんの旅の終わり」です。かばんちゃんはここまでずっと「何のために生まれ」「何をする生き物なのか」知るために旅をしてきました。例えばサーバルちゃんは図書館に行ったことがないのに、自分が「サーバルキャットのサーバル」であることを知っています。

かばんちゃんは何も知りません。「ナワバリは?」と聞かれても答えられません。「ナワバリが思い出せないなんて、大変ですね」と、ジェンツーペンギンのジェーンにも言われます。「ナワバリ」はジャパリパークの住人にとって、とても大切なものです。自分が何者か、ナワバリはどこなのか、人間の思春期の問いと、かばんちゃんの旅はどこか似ている気がします。ただ、このアニメはナレーションも、モノローグや心理描写も全くないので、かばんちゃん自身がそれをどう抱えてきたのか、それがはっきりと分かのはなんと11話までほとんどありません。そして、その問に対する思いがあまりにも深く、重くかばんちゃんの心をとらえていたという事実こそ、私が11話で衝撃を受けた本当の理由です。そして、11話のもう一つの衝撃がアライさんの存在でした。

 

◆アライさんが運んで来たもの

 二週遅れで常にかばんちゃんとサーバルちゃんを追いかけて来たアライさん、フェネックさんですが、この11話でついに追いつきます。(どうでもいいですが、この登場のシーンで二人の紹介文演出が初出だというのとてつもなくクールだと思いません?)。

物語上の役割で言えば、アライさんはパークガイドの帽子飾りの片方を持っていて、それが「四神」の在処を引き出す鍵なのですが、一方でかばんちゃん達の旅の「証人」でもあります。表面上、パークガイドの帽子の欠けた部分が戻り、かばんちゃんが暫定パークガイドとして認められたように見えるこのシーンですが、「旅の証人」であるアライさんがこれを渡すことによって、ジャパリパークに残して来たかばんちゃんの足跡が、いま立っている場所にしっかりと繋がっているように感じ取れます。

 ジャパリパークにかばんちゃんが刻んだ様々な思い出があるからこそ、アライさんの「かばんさんは偉大」という発言があったからこそ、その積み上げが(かばんちゃん自身の思いはどうあれ)「ぼくはお客さんじゃない」という言葉の重さにしっかりと繋がっているのです。11話分の思いと記憶。ここまで伏せておかれたかばんちゃんの内面に、そんな気持ちや願いがあったというという驚き。すべてが結実したシーンでした。太古の知恵を持つボスと、自分の足跡を知るものに見守られ、かばんちゃんは役割を与えられる前に、歩んできた道を見据えて自らの役割を決めました。それは誕生の物語であり、放浪の旅が終わりをつげ、かばんちゃんが英雄になった瞬間でもあります。けものフレンズは神なき時代にヒトがヒーローとして誕生する物語であったと、そう解釈することも可能です。

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◆僕のナワバリ

 かばんちゃんが何の動物か、フレンズか、何者か、もちろん物語のフックとしは機能しますし、何かしら回答は得られそうです。しかしながら、物語の根幹は、かばんちゃんがジャパリパークでどう受け入れられ、その自分をどう「引き受ける」かにあるとすれば、12話でかばんちゃんの正体がわかったところで、特に何も起こらないのでしょう。

 11話でかばんちゃんがサーバルちゃんを助けるためにやった木登り。単にサーバルちゃんに教わったことの伏線という以上に、ヒトもしくはヒトの象徴であるかばんちゃんも、ジャパリパークという外の世界から、自分でないナワバリから影響を受け、与えられていたという事を示しています。クールの前半は特にヒトの知恵を使い、人間化したフレンズの問題を解決するというパターンがあって(5話は特に顕著です)、「ヒトが与えた知恵によって、ジャパリパークに変化をもたらしているのでは……」という不安が、観る者の胸にあったわけです。

 しかし、8話の「ぺぱぷらいぶ」ではフレンズ達も自分たちの力で歩きだしているのを描いていました。思えばアルパカもカフェを始めたのは自分の意思です、ジャガーも泳げないフレンズのために仕事を始めました、ツチノコは過去を知るために遺跡を調べます。タイリクオオカミは他人を感動させる力を持ち、アミメキリンはそれを受け取って自分の役割を決めました。ジャパリパークはかばんちゃんと関係を持ちながら、それだけに影響されずに、たくましく回っていく生き物の営為の宝庫なのです。「ヒトが動物に知恵を与える」という単純な、一方通行なものではなく、かばんちゃんの中にも「ジャパリパークという世界」から与えられたものがあったのです。かばんちゃんが木登りをするとき、かばんちゃんの中にはサーバルちゃんがいます。役割を決めたかばんちゃんが選んだナワバリ、居場所こそ、その心の中の大切なものです。

サーバルちゃん…見るからにダメで、なんで生まれたかも分かんなかった僕を受け入れてくれて、ここまで見守ってくれて…  

 

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 小さな英雄は、きっと旅の終わりに自分のナワバリを見つけたのでしょう。

 

 

 さて、今日(3月28日)は最終回当日です。かばんちゃんとサーバルちゃんがどうなるか、私はどんな形でも受け入れる気持ちでいますが。やはり、やはり二人の笑顔でおわって欲しいと、そんな思いを抱えながら、放送を心待ちにしています。